当社と各地区の神様について

宝永の頃(1704~1710年)まで藤山の住民は、琴崎八幡宮(宇部市)の氏子であった。(中山・浜田地区は末信の正八幡宮の氏子であった。)

◆この頃、当社は西宮恵比寿神社という社号であった。時の宮司であった藤田三太夫は先祖は伊勢の人で、代々神主の家柄であった。この三太夫は非常に力が強く、情熱家であった。この頃、藤山は人口も増加し、富裕な家も少なくなかった。三太夫は、琴崎八幡宮まで参拝しなければならない里人を不愍に思い、何とかして琴崎八幡宮の神輿を藤山に持ち帰ろうと、宝永五年(1708年)九月の例祭日に屈強な青年数名を引き連れ、拝殿に並べてあった神輿のなかでも一番大きいのを肩に担ぎ上げ西宮恵比寿神社に持ち帰り、八幡様を御祀り申し上げたという。この強奪事件は本当の話かどうかは定かではないが、この後、現在地に新社殿が建立され、藤曲・居能・上条・中山・浜田の大氏神として崇敬・掲揚されるようになった。

◆天保五年(1834年)六月吉日、社殿正面に狛犬一対が奉納された。

奉納者は、三嶋屋与七・佐太良という。与七はこの地に住み、次のような漂流物語がある。与七が我が子三人に岐波の阿知須から雇い入れた船員九人との十三人で長崎から江戸に米を積んでいく途中、遠州灘でおおしけにあい無人島に漂流したが、幸いにもアメリカ船に救助され、アメリカ本土につれていかれた。その後日本に送り返されたが、与七はすでに他界してしまった。子供達と船員は萩で手続きをとり、やがて藤山に戻ったという。この後、氏子達は、遠くへ出向する前夜には当社に集い航海安全の祈願を受け、通夜の宴を催すようのなったという。

◆境内上段の石段とその玉垣は、嘉永三年(1850年)九月に松谷又右ェ門が、また下段の石段とその玉垣は、嘉永七年(1854年)に松谷辰右ェ門・大和屋源兵衛・西野屋喜八が奉納している。中でも松谷辰右ェ門は、嘉永六年(1853年)ペリーがいわゆる黒船にて浦賀に来航した際、幕府から毛利藩が江戸近海の警備を命ぜられ、松谷もこれに当たった。米国の艦船に恐れてしり込みし、鳥羽あたりから船を進める事が出来なかった回船業者が続出する中、辰右ェ門は勇敢にも藩の武器を無事に江戸に届けた。後に彼は防長回船頭となり、他国船取締り役も兼ねた。維新の戦に、武器、食料の輸送や兵士の移動などに防長両国(周防と長門)の為に大きな功績を残し、明治二十七年(1894年)十月九日八十七歳で逝去した。

◆境内、神殿に向かって左側に神木「たぶ」の木がある。このたぶの木は当社がこの地に建立された時には、既にあったと思われる。かなりの老木であり、直径約一・五メートルあり、山口県では古く太い方に属するといわれる。階段中段右側の東端に「ちしゃの木」がある。この木は、藤山に御縁はあった外務大臣 青木周蔵が、明治三十五年(1902年)に帰郷した際植樹された。葉が柿の葉に似ている所から「柿だましの木」とも呼ばれる。

西宮八幡宮の信仰と摂社

◆西宮八幡宮は、崇敬社であった西宮エビス三郎社に八幡様を合祀するという極めて稀な建立がなされた結果藤山総氏神という側面と夷子様や宗像三女神・武勇の神八幡様などの御利益を求める崇敬信仰が混在し、遠近各地より信仰される神社となりました。特に商売繁盛、事業繁栄、福徳円満、願望成就、人生行路の儀礼(安産・初宮・753・厄除け・良縁・合格祈願等)の御利益を求め祈祷を受けられる方が遠方からもお参りに来られます。又、当社境内社には稲荷神社・境外社として各地区の摂末社も古くから崇敬されております。

境内社

西宮稲荷神社 伏見稲荷大社・太鼓谷稲成神社御分霊を斎き祀る。農耕神としての性格から次第に商売繁盛の神と変容していった

        宇部市藤山地区は石炭事業が盛んであった為、廻船業としての「エビス信仰」と事業としての「稲荷信仰」も流行

        神(はやりがみ)として合祀され、共に商売繁盛の神として崇敬された。平成25年「第62回伊勢神功式年遷宮」             記念事業として境内に分祀、建立された。

境外社

居能「三嶋神社」「夷子(えびす)神社」居能地区の開作事業の神として建立されたが、疫病が流行した際、居能盆踊りを取り入

 れ、夏祭りは盛大に執り行われる。管弦祭も斉行される。隣接する夷子神社は居能の岬から御移座されたお社であり、宇部市沿岸

 部にあったと云われる「七エビス」の存在性を色濃く残すお社である。建立当初は西宮エビス三郎神を御祭神としたが、時代の経

 過に伴い、出雲の「コトシロヌシ」系のエビス神に性格が変容していった。然し乍、西宮八幡宮の前身「西宮夷子三郎社」との結

 びつきは強く、西宮八幡宮御神幸祭では古より御旅所として定められており、不変の関係性を保っている。

浜田地区 浜田水神社 寛文八年(1668年)開作の守護神竜神社として建立された。

中山地区 大鳥羽神社 寛延元年(1748年)豊作を祈り建立。当時は鶴が舞い降りた。

平原地区 秋葉神社  明治二十五年(1892年)火除けの神、豊作の神、護国の神。

居能地区 宮地嶽神社 明治三十年代(1897年頃)居能の繁栄を祈念し鍋倉山に建立。

・居能地区 三嶋神社  安政二年(1855年)居能開作の守り神として建立された。(詳細は上記のとおり)

当社は鎌倉時代に兵庫県西宮市御鎮座「西宮恵比寿三郎神」御分霊を現在地に祀り「西宮エビス三郎社」として崇敬されたことに始まる。当時の宇部湾岸部は干潟であり、貴重な台地から見下ろす景色は「海の辺(うみのべ)」と呼ばれ、これが現在の地名「宇部」の原点であったことが「防長風土注進案」には記載されている。文治年中には安芸の國「厳島神社」の三女神御分霊も斎祀り、境内社「厳島社」として厚く崇敬され、西宮恵比寿神同様、航海安全や大漁の守護神とされた。当時の宇部市湾岸部には他所にも摂津の國御鎮座「西宮神社」御祭神夷子神分霊を数か所に斎き祀ったことが歴史書には綴られている。(平家が厚く崇敬した厳島の神・瀬戸内海の終着点である摂津の國えびす神は漁業として発展していった藤曲から岬の民達には御神威高き神であった)今日でも宇部市岬地区には地元漁民によって夷子神社が崇敬されており、宮地町や鵜の島地区にも「西ノ宮」の地名が残っている。「宇部市史」によれば元歴元年現宮地町に「西ノ宮八幡宮」建立と記録されている。此の「西ノ宮八幡宮」は1377年に宇部郷の鎮守として御移座し社号を「琴崎八幡宮」と変えて今日に至っている。又、当社末社である居能町鎮座「三嶋神社」境内社にも「夷子神社」が現存しており、やはりこの社も元々は「西ノ宮夷子」と伝承されている。総じて宇部市湾岸部周辺には七社の夷子神社が存在していたと口伝されており「七えびす」と呼ばれていたという。中でも当社は「願望成就の祈願社」として殊に崇敬厚く、社号に唯一「西宮」を冠した「夷子三郎社」であった。推察するに傀儡子によって恵比寿神が漂流神から現世利益型の福神へと信仰が変化していった室町時代の1336年以降であろう。慶長五年「関ヶ原の戦い」によって周防・長門二カ国29万石に石高が激減した毛利氏は慶長15年に初の検地を行っている。70パーセントもの重税によって国外に逃亡する農民が続出。元和元年江戸時代に入り毛利氏は石高を増やすべく宇部湾岸部の埋立事業、所謂「開作事業」に着手する。当時海岸線の干潟であった当社付近も元禄二年の江の内開作事業によって新田地となった。塩田地も開発され石炭事業、廻船事業も繁盛し藤曲村は一大市場として発展していった。然し当時の藤曲村の氏神様は琴崎八幡宮であり、直線距離にして五キロ以上も離れている為、村民達は藤曲にも琴崎八幡宮の神様を建立して欲しいとの機運が高まっていった。「宇部郷土史話」によると、西宮エビス三郎社の神主であった藤田三太夫氏は徳兵衛という剛腕を率いて琴崎八幡宮の御神輿を力づくで奪い、恵比寿三郎社に合祀したという。無論当社の御神体は御神輿の分霊ではなく作り話であろう。但、全くの作り話とは言えないのは、当社約50メートル裏の小藪には藤田家の墓が南向きに建っている。之は当社の方角に意図的に建てられたものと考察され、藤田三太夫氏が藤曲の民達に氏神様を建立してあげたかったという情熱の名残であり、当社建立の何らかに関わった証であろう。神社信仰に於いては寛文5年(1665年7月)幕府によって「諸社禰宜神主法度」が公布されている。長州藩については是に先立つ事、万治三年9月に「社家法度」が公布されている。琴崎八幡宮勧請にあたり法令違反があったとすれば、西宮エビス三郎社は淫祠とみなされ宮を解かれた可能性は否定できない(但し証左する資料はない)。事由は事なれど、居能三嶋神社も村田清風の天保の改革によって藩庁簿書に記入漏れがあり淫祠とみなされ一度廃社にされた歴史がある。正徳3年(1713年)宇部村総鎮守「琴崎八幡宮」御祭神「応神天皇 神功皇后 仲哀天皇」御分霊を現在地に合祀し「西宮八幡宮」が建立された。西宮エビス三郎社と厳島社は解かれたものの御神体は氏子崇敬者によって手厚く祀られた。事由は無論、神領の支給に関わるからである。明治21年(1889)五月 藤曲村と中山村が合併。藤山村となる。当社は居能「三嶋神社」鍋倉「宮地嶽神社」平原「平原神社」中山「大鳥羽神社」浜田「水神社」を束ねる「藤山総鎮守社」となる。「宇部市史」によれば「恒石八幡宮・末信正八幡宮・松郷八幡宮・古尾八幡宮・琴崎八幡宮・横瀬八幡宮・南方八幡宮・平原八幡宮・西宮八幡宮」が宇部市の大社と記載されており、分けても当社は氏神のみならず夷子三郎神(通称えべっさん)を御奉祀されていることから「商売繁盛・事業繁栄・福徳円満・願望成就の守護神」としての信仰も多い。八幡神は「開運・厄除け・安産子育て・必勝の神」厳島三女神は「交通安全・祓いの神・人生行路守護」の御神威があるとして古く源氏の世から現在まで全国的な展開をみせ「氏神様・鎮守様」として斎き祀られている。当社には他に京都「伏見稲荷大社」島根県津和野町「太鼓谷稲成神社」両社の御分霊も御奉祀されており、歴史的に鑑みれば海運業や農業、商業や事業等で繁栄する宇部市近郷の民達が、時代時代に流行した神々を積極的に祀ってきたことが窺い知れるのである。

                               令和元年5月現在までの調査研究報告 西宮八幡宮 禰宜 野村 敦