「防長風土注進案」に基づく今日までの由緒
文治年中(1185~)安芸の国(広島県)厳島神社の分霊を藤曲(ふじまがり)に勧請した。
宝永5年(1708)5月、琴崎八幡宮の分霊を藤曲の厳島社に勧請し、西宮八幡宮と称する。
上記「大宮八幡宮」(東京都杉並区)所蔵の神功皇后像
当社の八幡神は、神功皇后の「聖母信仰」に繋がる応神天皇御誕生
までの数々の伝承を色濃く受けた性質を持っている。
大正時代までは「神功皇后式年大祭」並「応神天皇崩御式年大祭」
が執行されていたことが現存する資料で確認できる。
現実に当社付近には「神功皇后出兵」に纏わる神話が残っており、
近年までは「附会」とされてきたが、昭和44年に発掘された松崎
古墳からは「三角縁神獣鏡」などが見つかっており、大和朝廷との
強い繋がりがあったことが証明された。
また地形的にみても、当社は陸路への玄関口にあたり、ここを起点に厚東川を登ると「霜降城」から、正八幡宮~恒石八幡宮へと続き
船木付近の陸路からは神功皇后神話伝承の地「岡崎八幡宮」へと繋がる。従って、当社付近は敵方からの防衛要衝地機能のみならず、宇部経済の要であったことも理解できる。
こうした都市経済の形態は江戸(東京)にも見受けられ、当社の歴史を調査するにあたっては地政学の観点からも俯瞰している。
平成22年から令和5年までの研究結果による由緒
研究結果については、現在編集中の記念誌内「新訳 西宮八幡宮」の発行をもって本ページに掲載予定。
ここでは、従来の由緒内容の矛盾点について下記に示す。
・文治年中広島厳島神社分霊を祀った。
源平合戦間もない時代、平家の守護神であった厳島神社の分霊を
民衆の航海安全の理由で分祀することは考えられない。
現に、文治年中前後、周辺で建立された「厳島社」は主として平
家の御霊(みたま)をお慰めする事由からであった。
御神体も源平合戦戦場付近の海石などと記録されており、広島か
ら直接勧請されたものはほぼない。
次に、仮に「厳島社」が当社付近(実は、厳島社建立地を現在地
と記録された資料は未だ見つかっていない)に建立されていたと
して、今日(こんにち)に至るまで、厳島社に因んだ祭礼が一つ
として残っていないどころか、そもそも存在していない。
祀った神の祭礼を執行しない神社など有り得ない事であり、風土
注進案の記載内容には疑義が生じた。
・宝永5年琴崎八幡宮の分霊を祀って「西宮八幡宮」と相成る。
宝永という時代は徳川幕府による寺社管理が行われていた。
そこには「新たな神社建立を禁ずる」「新たな祭礼行事は認めな
い」「各国では寺社の内容を知り得る限り記した上申書(登記簿
簿)を提出すること」といった御沙汰があり、上記法律に抵触し
た寺社は「淫祠」とみなされ、解体されていた。
次に、琴崎八幡宮の分霊を祀って「西宮八幡宮」と社号が決まっ
たという点だが、社号には一定の原則があり、多くの「八幡宮」
は「地名+神号」という定義があった。
つまり、当社現在地の字名が「西宮」であったのであれば、理解
できるのだが、藤曲(ふじまがり)という地が歴史上「西宮」と
いう地名を名乗ったことは1度もなかった。
次に八幡宮の建立内容が「藤曲にも八幡宮が欲しかったから」と
いうのも、厳島社の建立事由同様、稚拙であり、毛利藩が認可し
たとは思えない。
民俗資料には「元来、この地に摂津の西宮神社分霊を祀っていた
ことから西宮八幡宮となった」とある。
確かに当社の祭神には「西宮ゑびす・大国神」が祀られている。
しかし、八幡神の神格を考察した場合、西宮ゑびすが八幡宮の
社号の筆頭につくというのもまず考えられない。
次に、琴崎八幡宮の分霊を祀ったという点であるが、当時から
遥か以前より、藤曲の氏神は琴崎八幡宮がまだ「西ノ宮の八幡
宮」という社名だった時代から続いていた。
これを鑑みると、すでに氏神社だった地区内に更に同じ神を分祀
したという内容だと解る。
社領の観点から見ても、これは有り得ない。