遠き祖先から連綿と受け継がれてきた共生の精神。神と共に生き、自然と共に生き、祖先と共に生き、そして大事な人達と共に「今この時」を生きる。その心をお互いに確認し、神縁なる絆を深める聖地・・。

西宮八幡宮は宇部のこの地でずっと生活を営んできた方々の悠久なる心の故郷。これからこの地に暮らす方々の新たなる心のふる里。そして古来から西宮大神様を「えびすさん」と親しんできた崇敬者の方々の心の故郷。

 

       「これまでも故郷。これからがふる里。絆の命脈。西宮八幡宮」

   境内社の紹介「成就(じょうじゅ)稲成社」

 

当社境内には「稲成神社」と「天神社」が建立されております。

稲成神社の御祭神は京都の稲荷本宮「伏見稲荷大社」と島根県津和野町「太皷谷稲成神社」の御分霊がお祀りされております。

 

元来「イナリ」とは食物を司る神「食保神(うけもちのかみ)」または「宇迦之御霊(うかのみたま)の神」と言います。宇迦之御霊の神は伏見の山の頂上から白鳥となり、金色の稲を成らした伝説にちなみ「稲成(いねなり)降りた」という言葉が「伊奈利(いなり)」に転じたと古書は伝えております。その後、弘法大師空海が建立した東寺に「稲を背負った老人」として現れ、守護神となります。空海は伊奈利の神が稲を荷った老人だったことから「稲荷」の字を充てたと言います。江戸時代に入り稲荷信仰は全国的に流布し、島根県津和野町にも分霊が祀られました。津和野城藩主の守護神であった稲荷神は、蔵番がなくした蔵の鍵が稲荷神に祈った結果、鍵が見つかったというお話から願い事を成就させる稲荷、即ち「稲成」という字が充てられ津和野城の太鼓やぐらの麓の谷に建立されたことから「太皷谷稲成神社」と名付けられました。商売が盛んであった宇部市にも「西宮えびす神」のみならず出雲大社の「大国主の神」そして「お稲荷さん」がお祀りされ信仰されました。当社のお稲成さんは、津和野太鼓谷稲成神社の信仰者がはるばる津和野に出向くことなく、拝めるようにと本殿に祀ったことにはじまり、近年では境内社として分社され、多くの方の信仰を集めております。

 

 

しめ縄保存会からのお知らせ

西宮八幡宮「しめ縄保存会」では、郷土伝統護持をモットーに市内外神社様のしめ縄を作成いたしております。

しめ縄作成の後継者が減少する現在、地元お社のしめ縄がご必要な方はお気軽にご相談ください。

連絡先 西宮八幡宮注連縄保存会 事務局 石田恒雄 迄 090-3740-7019)にお電話ください。

 

西宮八幡宮のご祈願祭について

当社では家内安全・商売繁盛・事業繁栄・交通安全・厄除け・星祭り他、様々なご祈願祭を奉仕しております。皆様それぞれにそれぞれのお願い事があります。細かなご希望に沿った祈願奉仕を心がけておりますので、受けられる際はそのお心を遠慮なくお申し付けください。

尚、外祭や葬儀で留守をすることがありますので、お手数ですが社務所迄ご連絡賜りますようお願い申し上げます。

当社は鎌倉時代の文治年中、藤曲浦の漁民によって安芸の國「厳島神社」の三女神御分霊を現在地の台地に斎き祀り「厳島社」として厚く崇敬されたことに始まる。航海安全や大漁の守護神とされた。他方、当時の宇部市湾岸部には摂津の國御鎮座「西宮神社」御祭神夷子神分霊を数か所に斎き祀った。(平家が厚く崇敬した厳島の神・瀬戸内海の終着点である摂津の國えびす神は漁業として発展していった藤曲から岬の民達には御神威高き神であった)今日でも宇部市岬地区には地元漁民によって夷子神社が崇敬されており、宮地町や鵜の島地区にも「西ノ宮」の地名が残っている。「宇部市史」によれば元歴元年現宮地町に「西ノ宮八幡宮」建立と記録されている。此の「西ノ宮八幡宮」は1377年に宇部郷の鎮守として御移座し社号を「琴崎八幡宮」と変えて今日に至っている。又、当社末社である居能町鎮座「三嶋神社」境内社にも「夷子神社」が現存しており、やはりこの社も元々は「西ノ宮夷子」と伝承されている。総じて宇部市湾岸部周辺には七社の夷子神社が存在していたと口伝されており「七えびす」と呼ばれていたという。当社に於いては現在地からは東の方角に「西ノ宮夷子三郎社」が建立されていたと伝承されており、現在の北条辺りで住宅街に囲まれた小高い台地の森となっている。建立年は不明であるが、当社の御神体は「夷子三郎神」であることから推察するに傀儡子によって恵比寿神が漂流神から現世利益型の福神へと信仰が変化していった室町時代の1336年以降であろう。慶長五年「関ヶ原の戦い」によって周防・長門二カ国29万石に石高が激減した毛利氏は慶長15年に初の検地を行っている。70パーセントもの重税によって国外に逃亡する農民が続出。元和元年江戸時代に入り毛利氏は石高を増やすべく宇部湾岸部の埋立事業、所謂「開作事業」に着手する。当時海岸線の干潟であった当社付近も元禄二年の江の内開作事業によって新田地となった。塩田地も開発され石炭事業、廻船事業も繁盛し藤曲村は一大市場として発展していった。然し当時の藤曲村の氏神様は琴崎八幡宮であり、直線距離にして五キロ以上も離れている為、村民達は藤曲にも琴崎八幡宮の神様を建立して欲しいとの機運が高まっていった。「宇部郷土史話」によると、西ノ宮えびす三郎社の神主であった藤田三太夫氏は徳兵衛という剛腕を率いて琴崎八幡宮の御神輿を力づくで奪い、恵比寿三郎社に合祀したという。無論当社の御神体は御神輿の分霊ではなく作り話であろう。但、全くの作り話とは言えないのは、当社約50メートル裏の小藪には藤田家の墓が南向きに建っている。之は当社の方角に意図的に建てられたものと考察され、藤田三太夫氏が藤曲の民達に氏神様を建立してあげたかったという情熱の名残であり、当社建立の何らかに関わった証であろう。神社信仰に於いては寛文5年(1665年7月)幕府によって「諸社禰宜神主法度」が公布されている。長州藩については是に先立つ事、万治三年9月に「社家法度」が公布されている。琴崎八幡宮勧請にあたり法令違反があったとすれば、西ノ宮えびす三郎社は淫祠とみなされ宮を解かれた可能性は高い。事由は事なれど、居能三嶋神社も村田清風の天保の改革によって藩庁簿書に記入漏れがあり淫祠とみなされ一度廃社にされた歴史がある。正徳3年(1713年)宇部村総鎮守「琴崎八幡宮」御祭神「応神天皇 神功皇后 仲哀天皇」御分霊を現在地に合祀し「西宮八幡宮」が建立された。西ノ宮恵比寿三郎社は解かれたものの御神体は密かに祀られたと推測される。事由は無論、神領の支給に関わるからである。当社の社号は西ノ宮恵比寿三郎社から取ったとも琴崎八幡宮が以前に社号とした「西ノ宮」を冠したとも伝承されている。明治21年(1889)五月 藤曲村と中山村が合併。藤山村となる。当社は居能「三嶋神社」鍋倉「宮地嶽神社」平原「平原神社」中山「大鳥羽神社」浜田「水神社」を束ねる「藤山総鎮守社」となる。「宇部市史」によれば「恒石八幡宮・末信正八幡宮・松郷八幡宮・古尾八幡宮・琴崎八幡宮・横瀬八幡宮・南方八幡宮・平原八幡宮・西宮八幡宮」が宇部市の大社と記載されており、分けても当社は氏神のみならず夷子三郎神(通称えべっさん)を御奉祀されていることから「商売繁盛・事業繁栄・福徳円満・願望成就の守護神」としての信仰も多い。八幡神は「開運・厄除け・安産子育て・必勝の神」厳島三女神は「交通安全・祓いの神・人生行路守護」の御神威があるとして古く源氏の世から現在まで全国的な展開をみせ「氏神様・鎮守様」として斎き祀られている。当社には他に京都「伏見稲荷大社」島根県津和野町「太鼓谷稲成神社」両社の御分霊も御奉祀されており、歴史的に鑑みれば海運業や農業、商業や事業等で繁栄する宇部市近郷の民達が、時代時代に流行した神々を積極的に祀ってきたことが窺い知れるのである。             平成25年6月現在までの調査研究報告 西宮八幡宮 禰宜 野村 敦